萩音会の成り立ちについて

萩音会会長 戸川榮士

 萩音会の成り立ちについては,遠い記憶の彼方となってしまいました。そこで、第1回卒業生の山田耕一さんに会の成り立ちについてうかがいました。

 音楽科の第一回卒業生は、四演で卒業演奏会の形でステージを持ちました。専攻1名、ピーク5名だったと思います。教育課程を終えたものが、卒演を行うことに教授会は紛糾したと言う話も聞いています。そのときのプログラムは、探せば見つかると思いますが、時間が掛かりそうです。日食正昭君が<星も光りぬ>などを歌い、迫君も歌いました。私は合唱作品<るるる葬送>を作曲・指揮して発表したのを、あなたも記憶していると思います。
その日だったか、後日だったか忘れましたが、卒業生と音楽科の先生方により一席が設けられ、その雰囲気の中で同窓会の話が出て、板橋先生が「萩音会」の名を初めて口にされました。これが名称の由来であり、この名を冠したステージはずっと後になってからだと思います。
それから10年も経ったでしょうか(これが1985年かもしれません)。数の増えた卒業生から声が上がって、何度か音楽棟に足を運び、本間雅夫先生を中心とした大学側の協力もあって、正式に「萩音会」の名の下に、会則を作り、同窓会活動は始まりました。
初代会長が私だったかどうか良く覚えておりません。この名を使った音楽祭が始められたのは、この後だと思います。

 私自身は第3回の音楽ピーク卒業であり,第1回卒業生とはピーク以前(2年生時)のお付き合いだったので,第1回卒業生の「卒業演奏会」開催までの経緯やご苦労などは存じ上げませんでした。
また,私の記憶では,第2回,第3回卒業生の「卒業演奏会」は,大町にあった医師会館のホールをお借りして開催したと記憶しています。
なお,山田さんの文章の中にある「1985年」は,萩音会会則の付則第1項(会則の成立年)です。機会があれば,卒業生に調査して,詳細を明らかにしておきたいと思います。